北部九州に現存する肥前鳥居|GoogleMaps

2013/04/08

四月八日

耳納連山(福岡県小郡市福童)


調べ物と媛社(七夕)神社への定期参拝の帰り、宝満川堤防から撮ってみました。
小郡から見る耳納連山が画角的にも肉眼でも見やすい場所です。住んでいる久留米(筑後川沿い)から見る耳納の山はもう壁にしか見えないんですよね・・・。やはり小郡からの眺めが一番だなと。
写真はPhotoshopのPhotomarge機能を使い、パノラマにしてみました。
写真右下は結合時の自動調整で透明ピクセルになったのでスポット修正しています。ですので、畑のパターンが変になってしまっています。

-

今回は神社を離れて筑後の山、耳納連山をとり上げてみようかと。

耳納山地(みのうさんち)は、福岡県筑後地方にある山地名。久留米市に端を発し、大分県堺まで至る。水縄山地とも表記する。断層帯であり、水縄断層とよばれ、北側(久留米市側)は急な崖状、南側(八女郡側)は緩斜面となっている。
──Wikipediaより

写真右端の祇園山(高良山からさらに下)から写真左端の大分県高井岳(写ってないですが)まで、直線距離で大よそ30キロの連山です。
今は滅多に呼ばれませんが、耳納連山全体を指して屏風山とも呼ばれます。北斜面が屏風を立てたように見えるからだとか。
山の北面と筑後川の間には水縄活断層が連山と並行して走っており、断層は久留米市街地まで及びます。この断層が互いにずれ、この山と筑後川の原型が形成されたといわれています。それを示すかのように北面は急峻な斜面(浸食されているとはいえ、登ると実際崖)です。中世には高良山座主、草野、問注所、星野等、筑後の各豪族が山城を構えていました。守りに入るには絶好の処でもあります。
活断層による地震の影響が取り沙汰されますが、これの恩恵を受けているのもまた事実だと思います。

耳納という語源ですが、これには諸説あるようです。
神功皇后の三韓征伐において討取った敵兵の首が余りにも多く持ち帰るのに難儀し、首の代わりに耳を切り取り塩漬けにして送り、高良の山へ納めたとも。また、田主丸辺~吉井の山には牛鬼棲みつき村々を荒らしており、それ退治した僧が耳を切り取り山に収めたためとも。この二つの説話は時代も違いすぎてどちらがオリジナルか分かりませんが、耳を納める、という粗筋があったのでしょうか。

「みの」はそのまま山の民を指し、「箕造り」という職業から来た言葉とも。箕には邪を払う呪力があるとされ、蓑笠をつける者は古代では怨霊あるいは神または鬼であり、山の民は鬼の一族といわれてきました。その鬼は神と同義でもあり転じて山の神であるとも。蓑はワラで作りますが本来は茅の葉。茅の葉は手が切れる、転じて「いやなものを払う」という力があるとされました。みのお地名は様々な表記があり、水尾、水縄、三納、箕面、美嚢、耳納など。説話も数多ありますが、その多くが水の生まれる沢であると。ちなみに子供が乗って遊ぶ竹で編んだ庭道具を「箕」と書いて「み」と一言うとも。

そういえば、以前訪れたうきは市新川の高御魂神社(妙見宮)周辺は物部由来の里でもありましたし、縄文海進で現在の筑後平野は筑紫潟(有明海)の一部でした。
水が粗方引く弥生晩期~古墳期まで、この辺りは山で生活するのが普通のことだったのかも知れません。確証はありませんが。

山だけでも色々な視点で見れるものですな。
今日はここまで。